『人魚の眠る家』東野圭吾

5歳の娘がプールで溺れた。
連絡を受けた両親が駆けつけるがすでに、脳死状態だった。
突然の娘の不幸に打ちのめされているその当日に、すぐ臓器提供する意思があるかどうか医師から確認されるのは辛すぎる。
一度は臓器提供を承諾するのだが、娘の手が微かに動いたような気がして、急遽、臓器提供を取りやめる。

その後、家に引き取り、脳死になった娘をずっと看病し続ける母親の姿を、もう死んでいるのに母親の自己満足でしかないと周りの目は冷たい。

日本で臓器移植を待つ患者が、脳死した人の臓器をもらえる確率はとても低いので、海外で提供を待つことになるが、かかる費用が億単位の高額になるという問題がある。
日本では、心臓が動いていて、血が通っているのに、死んだものとして臓器を取り出すことに、強い抵抗があるのだ。

印象に残った一文を抜粋する。(以下)

きっと瑞穂(脳死した娘)が生きているかぎり、あれこれと心配することになったに違いない。結婚しようが、家庭を作ろうが、いつまで経っても親は子供のことが気がかりだ。
そんな心配も親の喜びの一つだという考え方がある。
ならば、生涯目覚めることがない子を看る喜びも同じではないか。

母親は周囲の冷たい目など気にしていない。こんな愛情もあり、人によって幸せの基準が違う。自分は自分と堂々としている母親が強いと思った。

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